吾妻東蔵(あずまとうぞう)・初代    寛文5年〜享保元年9月5日(1665-1716)

    江戸の歌舞伎道外方俳優・吾妻屋初世・狂言作者。江戸出身。幼名、はじめ吾妻藤次郎のち東藤蔵。俳名、園枝。江戸堺町芝居茶屋の倅。はじめ吾妻籐次郎と名乗り、湯島天神の宮芝居に出る。宝永4年(1707)籐蔵と改め8代目市村羽左衛門の門人となり、半道敵(はんどうがたき)や所作事(しょさごと)を得意とし、江戸市村座「鉢木大鑑」に道外として奴役。宝永7年(1710)東と改め、「神力定家東遊」にぞうり取百助役。正徳3年(1713)中村座「大飾叶曽我」に大いそ屋辰十郎役。正徳5年(1715)市村座「万歳女鉢木」にそろり与五郎役。享保元年(1716)同座でうしの介役を勤め、最後の舞台となる。当たり役は、「猫間中将」、「奴百助」、「そろり與五郎」、「大磯屋辰十郎」。52歳。山村座弟に狂言作家の中村清七がいる。吾妻兵五郎の孫。法名「学陽善知」。「東蔵」としたのは、墓誌に従った。

吾妻藤蔵(あずまとうぞう)・2代     享保9年〜安永6年(1724-1776)

     江戸の歌舞伎俳優・吾妻屋二世。江戸出身。幼名、中村清之助。父、中村清七(次男)。俳名、園子・園枝。通称、こぶ籐蔵。前名、生島大吉(2代)。父、没後8代目市村羽左衛門の門人(のち生島大気地の門人)となり坂東橘作と改めたが、すぐに伯父の初代の名を継ぎ、2代吾妻籐蔵を名乗る。享保15年(1730)江戸市村座に子役として勤める。元文の末、若衆方を勤める。のち、生島大吉の門人となり若女方となり、寛延元年(1748)市村座で2代目生島大吉を襲名するが再び吾妻籐蔵に戻る。以後、名を変えては戻すことをした。明和2年(1765)森田座の立女方となる。当たり役は、「女鳴神」、「白妙」、「京の小女郎」など。舞踏吾妻流の祖といわれる。没年は墓誌に従った。「丹敬院常心日持」。

吾妻籐蔵(あずまとうぞう)・3代     宝暦6年〜寛政10年6月19日(1758-1798)

     江戸の歌舞伎俳優。若女方。江戸出身。父、中村清七。俳名、園花のち園枝。2代目藤蔵の門を経て9代目市村羽左衛門に入門。初名、吾妻富五郎。振付名、生島大吉。安永8年(1779)3代目吾妻籐蔵を襲名。寛政元年(1789)から関西で活躍し、大阪で没する。43歳。当たり役は、「琴責の阿古屋」、「桂川のお石」、「浅妻船」など。

墓は、甲8号7側。さくら通りより2基目。「吾妻流先祖之墓」。昭和49年建立(妙円寺より改葬)。没年は墓誌に従った。