赤塚武盛(あかつかたけもり)    嘉永4年〜明治12年4月7日(1851-1879)

    会津藩士。父、赤塚治定。青森県出身。戊辰戦争で朱雀隊に加わり従軍。敗戦し越後高田藩に幽閉される。明治3年(1870)会津藩を没収された会津松平家は、斗南に3万石を与えられ、会津藩士4700名は斗南藩(となみはん)に移住。赤塚武盛も父治定に従い移住。明治5年(1872)東京に出る。明治8年(1875)警視庁勤務(権少警部)。明治10年(1877)西南の役に従軍、警視隊3人男の一人として勇名全軍に轟かせる働きをする。戦後、平時は武術のみではいけないと夜学を開設。明治12年(1879)兇賊に出くわし奮闘、重傷を負い追跡中、巡視の警官に誤認され、十数人の警官に乱打され絶命。勲六等。28歳。

墓は、谷中霊園 乙4号3側。最奥の塀寄り。正面「赤塚家之墓」。脇に「赤塚権少警部碑」がある。