荒井顕道(あらいあきみち)/荒井清兵衛    文化11年〜文久2年8月11日(1814-1862)

    幕臣の民政家。父、荒井道貞。江戸出身。幼名、太郎。通称、清兵衛。字、慎士。和漢・蘭学を修める。天保10年(1839)家督を継ぐ。小普請方から嘉永2年(1849)陸奥国棚倉の代官。嘉永4年(1851)甲斐国八代郡市川、安政2年(1855)陸奥国桑折(11万石の天領)の代官となる。代官時代に江戸初期からの地方支配の法令・慣行などを集め嘉永6年(1853)「牧民金鑑」を編纂。弟に幕府最後の海軍総裁の矢田堀鴻(やたぼり こう、1829-1887.12.18)。子に幕政家の荒井郁之助(1835-1909)(長男)・画家の荒井陸男(7男)。夫人は、蘭学医師安藤文沢の娘とみ子。一宮浅間神社(山梨県西八代郡市川三郷町高田3696)の境内には荒井清兵衛顕道を祀った生祠がある。

墓は、休昌院墓地(池之端2-5-38)。本堂横から墓地に入り、本堂とは反対側の奥の通路を右に行き、途中から右側に沿う通路に移り、中ほど右側。一段と低い墓碑。正面「心源院殿迂軒顕道居士」。