阿佐田哲也(あさだてつや)    昭和4年〜平成元年4月10日(1929-1989)

     直木賞受賞作家。本名、色川武大(いろかわたけひろ)。父、海軍大佐色川武夫(1885-1981)(長男)。東京牛込出身。小学校時代から学校嫌いで浅草などで映画や寄席に熱中。旧制東京市立三中を中退。父親の恩給が止まり、以後、不正業な職を転々とする。麻雀を覚え、勤労工場時代に腕を上げ、終戦の17歳のときから麻雀打ちとなる。のち、「小説クラブ」の編集者となる。戦後の混乱期に賭博師として過ごした経験を基に、昭和30年(1955)代に「麻雀放浪記」などの一連を小説を発表し、ロングセラーと続け、「マージャン小説」というジャンルを築いた。ギャンブル小説は「阿佐田哲也」のペンネームで、その他の小説は本名を使っている。「阿佐田哲也」とは「朝だ徹夜だ」をもじったものという。一時「井上志摩夫」名で短編小説を書く。著書「麻雀放浪記」は映画化されている。昭和36年(1961)純文学の分野でも「黒い布」で中央公論新人賞、昭和52年(1977)「怪しい来賓簿」で泉鏡花賞、昭和53年(1978)「離婚」で直木賞、昭和57年(1982)「百」で川端康成文学賞、平成元年(1989)「狂人日記」で読売文学賞を受賞。平成元年(1989)3月岩手県一関市に転居、同4月心筋梗塞により没する。60歳。「行雲院大徳哲章居士」。

色川誠一(いろかわせいいち)     嘉永3年〜明治42年7月14日(1850-1909)

     富士製紙常務取締役。茨城県土浦出身。伯父・父共に国学者として有名。阿佐田哲也の祖父。団々珍聞社に入り、一切経の予約出版をする。明治20年(1887)廣瀬誠一郎と共に利根運河会社設立に尽力し、明治23年(1890)2月25日全線通水となり、5月10日すべての工事が完成した。この事業の熱意から広瀬誠一郎・人見寧らと共に「利根運河の三狂生」と言われた。またサッポロビールの会社設立にも関与。 60歳。妻は、綾子。後妻は、仁子。「嶺高院忠誉雄誠宗英大居士」。

※ 伯父・父共に国学者として有名:色川三中(いろかわみなか: 享和元年〜安政2年(1801-1855))という茨城出身の人はいるが、直接的な関係を示す情報が見つからない。

墓は、谷中霊園 甲1号9側。正面「色川家之墓」。形に特徴がある。父、色川武夫も合祀。