坊城俊徳(ぼうじょうとしのり)     明治22年〜明治44年1月15日(1889-1911)

     伯爵。父、伯爵坊城俊章(三男)。母、坊城満寿(1867-?)。明治39年(1906)襲爵。東京帝国大学工科3年在学中に腸チフスに感染して没する。23歳。

坊城俊良(ぼうじょうとしなが)     明治26年〜昭和41年5月30日(1893-1966)

     式部官・伊勢神宮大宮司・皇太后宮太夫・伯爵。父、伯爵坊城俊章(四男)。母、坊城秀子(?-1938)。兄俊徳が先に没したため後を継ぐ。明治44年(1911)伯爵を襲爵。宮内省侍従、主猟官・式部職楽部長・掌典職庶務課長・式部職儀式課長を歴任。昭和2年(1927)大礼使事務官。正三位勲二等。72歳。夫人は、入江為守長女坊城朔子(明治30年〜昭和7年12月21日)。

坊城俊民(ぼうじょうとしたみ)     大正6年3月29日〜平成2年4月6日(1917-1990)

     国文学者。父、坊城俊良(長男)。入江相政の甥。東京出身。学習院卒。在学中、文芸部委員を務め、部誌「雪線」に「鼻と一族」を発表。学習院高等科で当時の中等科の三島由紀夫を知る。のち、三島の短篇「詩を書く少年」のRのモデルとなった。昭和16年(1941)東京帝国大学文学部国文科卒業。昭和18年(1943-1964)東京府立第九中学校(東京都立北園高等学校)で国語教師を務める。のち、芝中学校教諭・都立志村高校校長・池袋商業高校校長。昭和26年(1951)から昭和63年(1988)まで歌会始の講師・講師控・講頌を努める。三島由紀夫とは一時絶交状態となるも昭和45年(1970)ころ旧交を復す。正五位勲四等。73歳。妻、坊城章子(?〜昭和8年3月25日)。著書:「炎の幻想―回想の三島由紀夫―」、「末裔」、「ふるさとの青春―王朝文学管見―」、「京の翳―王朝文学管見―」など。共著:「宮中新年歌会始」。

墓は、谷中霊園 乙12号8側。正面「坊城家之墓」。