出羽湊秀一(でわみなとしゅういち)/藤島秀一(ふじしましゅういち)     大正12年4月24日〜昭和54年9月16日(1923-1979)

    関取。本名、川田秀一。青森県中津軽郡岩木村葛原出身。父、川田弥惣(五男)。母、そと。はじめ青森駅鉄道小荷物係り。岩木山の麓に育つ。岳暘小学校を卒業。弘前市村立玉成高等学校卒業し、半年程家業を手伝い、鉄道員として青森駅の小荷物係りとして勤務。力士を志し昭和15年(1940)上京。出羽湊利吉を頼り出羽海部屋に入門。川田・出羽龍・岩木山・出羽湊と改名。昭和19年(1944)幕下のとき兵役で満州第1215部隊に入隊、陸軍伍長でソ連に抑留される。昭和22年(1947)3月朝鮮漢口の収容所から佐世保港に引上げる。同年5月再度上京、幕下上位から土俵に上がる。昭和24年(1949)5月十両昇進。昭和28年(1953)5月30歳で新入幕。最高位、前頭筆頭。通算、幕内在位20場所・135勝148敗17休。昭和33年(1958)5月場所で引退。年寄藤島を襲名。昭和30年(1955)12月割烹料理店を開店。57歳。

墓は、寛永寺第3霊園。大通路を約2/3ほど行き、左側の大久保家之墓の手前の通路を左に入り、右側10基目。正面「川田家之墓」。「誠徳院泰嶽秀道居士」。「二代目出羽湊 藤島事之碑」がある。