遠藤清子(えんどうきよこ) 明治15年2月11日〜大正9年12月18日(1882-1920)
婦人解放運動家・小説家・評論家。父、元上総国久留里藩家老木村信義(長女)。東京神田表猿楽町出身。父の事業の失敗で、府立第一高等女学校を中退。東京府教員伝習所卒業。英語教師・小学校教員・電報通信社(電通)・大阪日報記者などの仕事をしながら治安警察法第5条撤廃運動および婦人参政権運動をする。インド人・フィリッピン人・中国人などの世話もよくした。電報通信社の同僚で妻子ある中尾五郎との恋愛に悩み、明治42年(1909)夏国府津の海に投身したが漁夫に助けられる。その暮れには妻と別居中の岩野泡鳴と同棲するがセックスを拒否、半獣主義者の岩野と恋愛神聖主義者の遠藤との同棲は、「霊が勝つか肉が勝つかの問題」として世間の話題となった。明治44年(1911)「青鞜社」同人となり、婦人の思想の自由独立と経済的独立の必要性を説いた。大正2年(1913)正式に離婚した岩野と結婚、「青鞜」などで岩野清子のペンネームで執筆した。翌年に一子民雄を生むが、岩野が雇った口述筆記者の蒲原英枝と同棲をはじめたため、2年で離婚し、互いに法廷闘争に発展した。これを題材にして大正4年(1915)「愛の闘争」を刊行。大正6年(1917)正式離婚となる。のち洋画家遠藤辰之助と同棲、大正8年(1919)長女を生む。同年新婦人協会に参加し、婦人参政権運動をする。京都で客死。39歳。
墓は、了ごん寺。ぎんなん横丁側の塀際。正面「遠藤清子/長男民雄 墓」。墓碑は旧「青鞜社」の同人によって建てられ、同じ女性解放運動家の平塚雷鳥(1886-1971)の執筆。"長男民雄"とあるが、岩野泡鳴にとっては五男。