江崎礼二(えざきれいじ)    弘化2年〜明治43年6月28日(1845-1910)

    明治の写真家。号、江春。姓、塩谷、のち江崎。父、農業塩谷兵左衛門(二男)。 我が国の商業写真の開祖と言われる下岡蓮杖(1823-1914)らとともに、明治の風俗、人物写真を撮る。美濃の厚見郡江崎村(岐阜市)出身。大垣の久世喜弘(後の造幣局判事)に写真術の基礎を学ぶ。明治3年(1870)藩大参事小野崎蔵男に従い東京に出て、下岡蓮枝の門下となり住む。明治4年(1871)東京宇田川町に開業。明治6年(1873)に浅草公園に移転し開業。我が国最初の月食写真を撮り名声を上げる。当時は湿版写真で撮るのに30分ばかりかかったが、江崎礼二は、明治16年(1883)乾板写真を使用し水雷爆破の瞬間の写真を撮り早撮写真として一躍有名になった。明治31年(1898)東京市議会議員・市参事会員。浅草銀行監査役・その他名誉職。66歳。

江崎岩吉(えざきいわきち)     明治23年12月1日〜昭和61年1月16日(1890-1986)

     海軍技術中将。父、江崎礼二(四男)。東京出身。第一高等学校を卒業後、大正5年(1916)海軍造船に入学。大正6年(1917)東京帝国大学工科大学造船学科卒業、海軍造船中技師となる。以後、福数の部署を経て、イギリス駐在となる。大正12年(1923-1926)グリニッジ海軍大学に留学。帰国して艦政本部・横須賀工廠造船部員横須賀鎮守府付・艦政本部員・海軍技術研究所・兼艦政本部員・呉工廠造船実験部長・横須賀工廠造船部長などを歴任。昭和15年(1940)11月海軍造船少将。さらに艦政本部出仕・基本計画主任(1941-1943)などを歴任。昭和17年(1942)11月海軍技術少将。さらに艦政本部第4部長となり、昭和19年(1944)5月海軍技術中将。同年10月予備役。

墓は、谷中霊園甲3号2側。桜通りから当ブロック通路最奥。正面「江崎礼二/室宇多子之墓」。「崇得院興誉礼仁居士」。礼二の墓は、夫婦墓であるが、他に墓碑はなく、板墓誌のみあるので、岩吉は礼二の墓に合祀されているものと思われる。