藤間勘兵衛(ふじまかんべい)・藤間勘十郎(ふじまかんじゅうろう)

    日本舞踊藤間流宗家。日本舞踊の流派の中でも最大の規模をもつ。藤間勘兵衛(1690頃?-1769)が創始したもので、その後勘兵衛の直系の流派は1906年に断絶し、勘兵衛の名跡は勘十郎派に預けられている。現在は「家元」勘右衛門の系列と「宗家」勘十郎の系列が2大流派となっている。

藤間勘兵衛
初代:「盛誉慈雲林翁信士」、?〜明和6年12月11日(?-1769)武州入間郡藤間村出身。志賀山流門下で修行し、宝永年間に江戸に出て、初代中村伝次郎の門に入る。のち振付師として活躍した。
2代:「詠誉栄林信士」、?〜天明5年3月13日(?-1785)
3代:「法誉躰覚教善信士」、?〜文政4年12月21日(?-1821)2代の娘婿で、3代目藤間勘兵衛であったが、家庭の不和から一時藤間を離れ、藤間勘十郎を名乗る。文化文政期(1804-1829)の振付の名人と言われた。4代以降は女系で踊りの師匠となった。7代が没すると正系勘兵衛の名称は絶えた。

藤間勘十郎
初世:「教随院法山日登信士」、寛政8年〜天保11年12月24日(1796-1840)、3代藤間勘兵衛の養子。江戸茅場町に住み、「茅場町の藤間」と呼ばれる。
2世:「妙喜院吉祥日観大姉」、文政6年〜明治15年7月14日(1823-1882)、よし。
3世:「妙信院貞祥日盍大姉」、慶応2年〜明治21年8月19日(1866-1888)、ふじ、23歳。
4世:「妙信院勝歓日喜大姉」、天保2年〜明治25年8月27日(1831-1892)、かね、61歳。
5世:「秀技院妙勘日祖大姉」、安政2年〜昭和10年3月10日(1855-1935)、多津、80歳、4世の養女。
6世:「藤暉院殿助祖日秀大居士」、明治33年10月8日〜平成2年12月5日(1900-1990)、名、藤間秀雄、5世の養子。大正15年(1926)宗家を継ぎ、昭和4年(1929)勘十郎を襲名。3代以降途絶えていた劇場との関係を、尾上菊五郎一座の振付師となり歌舞伎座に復活。門下に西川鯉三郎・尾上菊之丞らがいる。昭和35年(1960)重要無形文化財。昭和37年(1962)芸術院賞受賞。昭和42年(1967)芸術院会員。昭和62年(1987)文化勲章受章。90歳。

墓は、谷中霊園 乙12号6側。代・世の数え方は、墓碑に従った。正面「藤間宗家之墓」。