富士松魯中(ふじまつろちゅう)・初代 寛政9年〜文久元年6月20日(1797-1861)
新内節太夫。本名、野中彦兵衛。江戸出身。鶴賀3代目家元鶴吉に師事。故あって離れ、浅草三好町の船宿に夫婦養子となる。富士松家を再興して富士松加賀太夫魯中として一派を旗揚げした。のち、富士松魯中と改名、家元となる。新内の品の悪さを正し、格調をもたせ、新作に尽力し、60段余の作品を残した。65歳。作品:「弥次喜太」3段、「真夢(まさゆめ)」など。
墓は、蓮花寺墓地(谷中4-3-1)。ただし、山門前に案内石があるが、既に無縁合祀墓となっていて富士松魯中の墓は見られない。