藤田呉江(ふじたごこう)/藤田憲 文政11年11月21日〜明治18年5月22日(1828-1885)
日本画家・富山藩儒家。名、憲通。字、憲章。通称、重孝・太郎兵衛。号、呉江。父、富山藩士足軽頭藤田重孝。富山県出身。下谷で塾を開いていた藤森天山(/弘庵:1799-1862)に師事し儒を学ぶ。26歳で藩に帰り藩校「廣徳館」の教師(訓導)となる。この頃藩内では、お家騒動があり、勝ち組の家老山田嘉膳(かぜん)暗殺計画が行われ、一派に加わっていた呉江は中止させようとしたが不調に終わり、一派を外れ計画を嘉膳に知らせるが、結局場内で暗殺される。戊辰戦争では、富山藩は新政府側につき、呉江も小隊の「横目」として新潟に出陣し、左頬に弾丸を受け負傷する。明治3年(1870)戦功が認められ高沢覚馬・古谷直記・古川権二らと富山藩公用人となる。辞職してからは、文人として狩野派・南画を研究し一家をなす。明治15年(1882)に開催された第1回内国絵画共進会に「木芙蓉」という扇面に描かれた作品を出品し、第2席中の6人の中に選ばれる。明治17年(1884)明治絵画共進会審査委員。59歳。