蒲生君平(がもうくんぺい)    明和5年〜文化10年7月5日(1768-1813)

    江戸時代後期の国学者・勤皇家。名、秀実・夷吾。通称、伊三郎。号、静・修静庵。字、君平・君蔵。下野国宇都宮出身。生家は灯油商。父、福田又右衛門正栄(四男)。子供の頃、祖母より蒲生氏郷の出だと教えられ、のち自ら姓を蒲生と改めた。林子平(1738-1793)・高山彦九郎(1747-1793)と共に寛政の三奇人と呼ばれる。君平は独学で経史を学び、15歳で鹿沼石橋町の儒者鈴木石橋(沢民)にの「麗澤舎」に入塾、経史を学ぶ。傍ら古代の制度律令を鈴木為蝶軒に学ぶ。山本北山に師事。勤王の志士藤田幽谷とも親交する。曲亭馬琴・本居宣長らと知己となる。水戸学の感化を受け、歴代天皇陵を調査し、「山陵志」2巻を著わす。幕末の尊王論に大きな影響を与える。享和2年(1802)、江戸の昌平黌に学び、文化元年(1804)には吉祥寺の近くに学塾「静修庵」を開いた。その後も文筆活動に多くの時間を費やした。46歳。明治14年(1881)贈正四位。著書:北方の防備を説く「不恤緯」、「山陵志」、「職官志」、論策に「今書」がある。

墓は、臨江寺(谷中1)墓地。山門より左に墓地に入り、奥の階段を登って数m。「蒲生君蔵墓表」とある。墓石の周りは何やら細かな字で埋め尽くされている。都指定史跡。