五島耕畝(ごとうこうほ) 明治15年〜昭和33年6月11日(1882-1958)
日本画家。本名、五島貞雄。父、五島伝之允。茨城県久慈郡(日立市)出身。16歳で市内内田町の梶山太海に絵を学び、ついで水戸の松平雪江に師事。明治34年(1901)東京に出て原丹橋に師事。ついで荒木寛畝に師事して花鳥画を学ぶ。南北合派を研究。読画会会員。明治40年(1907)東京勧業博覧会で「秋」が褒状を受ける。同年の文展開設で、正派同志会の結成に評議員として参画。明治41年(1908)第2回文展に「塒はなれ」を出品。明治43年(1910)日英博覧会で銅賞。以来、「初秋の朝」、「河原の朝」、「深山の秋」、「田家の秋」など文展・帝展に出品。入選11回、推薦1回。宮内省買い上げとなる作品あり。昭和5年(1930)から帝展推薦として最終展まで出品。戦時中は、生家のある中里村に疎開、戦後は、那珂町菅谷で創作活動を続ける。日本美術協会の創立時会員。日本美術協会絵画委員、同審査員。美術研精会・日本画会・同志会委員。読画会幹事。帝国絵画協会会員。77歳。
墓は、谷中霊園 乙9号6側。正面「五島耕畝/室 治子 墓」。