長谷川一夫(はせがわかずお) 明治41年2月27日〜昭和59年4月6日(1908-1984)
俳優。前名、林長二郎。京都市伏見区の造り酒屋出身。7歳のときすぐ近くの芝居小屋一座の子役が出られないときに代わりを務め大当たりする。その後初代中村雁次郎に師事し林長丸という芸名を得る。歌舞伎家系でない長丸を案じ雁次郎から映画界入りを勧められ昭和2年(1927)松竹下加茂に入社。即「稚児剣法」の主役となりデビュー大ヒットする。昭和10年(1935)の「雪之丞変化」は記録的な大ヒットとなった。その後松竹下加茂時代に120本もの映画に出演。松竹時代の黄金時代を築いた。昭和12年(1937)松竹から東宝に移籍。この転籍トラブルが原因で撮影第1日目に暴漢に襲われ顔を切られ負傷、役者復帰は絶望的となったが、奇跡的にかなり良い状態で回復。手術後の東宝映画の第一回の作品が菊池寛原作の「藤十郎の恋」のおりに、松竹が林長二郎の名を使わせず昭和13年(1938)本名の長谷川一夫となった。昭和17年(1942)3月に新演技座を結成。昭和19年(1944)移動劇団となる。昭和28年(1953)「地獄門」でカンヌ国際映画際でグランプリを獲得。昭和30年(1955)東宝歌舞伎を創設。テレビ時代でも人気を維持。昭和39年(1964)のNHK大河ドラマ「赤穂浪士」の大石内蔵助役は有名。昭和49年(1974)から昭和51年(1976)の宝塚の「ベルサイユのばら」に演出し、空前の大々ヒットとなる。死後国民栄誉賞に輝く。76歳。妻早子は、林長三郎の妹。長男、長谷川寿/俳優林成年。長女、女優長谷川季子。二女、稀世。
墓は、谷中霊園甲9号2側。駐在所前。子が建立した比較的小振りの墓で、京都の墓の分骨である。3つある墓の中央のもの。正面「照林院澄誉演雅一道大居士/・・・」。分骨墓だから小さいのかと思ったら、そうではなくて、墓域を囲む石囲いの高さ、赤土、小型の五輪塔造り供養塔、小型の墓碑、それらの配置など、墓相の諺に一致しているそうである。観光で訪れる人は、ひときわ大きく立派な墓碑を想像して来られるようで、「え〜、これですか」などと良く言われる。