秦檍丸(はたあわきまろ)/村上島之允(むらかみしまのじょう)    宝暦10年〜文化5年8月12日(1760-1808)

    江戸時代の蝦夷地探検家・アイヌ民族研究家・間宮林蔵の師。三重県伊勢山田出身。村上島之允は島之丞と記すこともあり、秦檍丸という幼名を筆名に用いることもある。年少期にどの師についたかは不明。年少のころから旅に明け暮れることが多く、生涯を旅に暮らした。各地を旅したため地理に詳しく、画筆を得意とし、後に蝦夷地の調査に活躍し、アイヌの風俗画を数多く残した。
     天明8(1788)年に老中松平定信(1758-1829:徳川吉宗の孫)に伊勢で見いだされた。定信の命で、地理調査のため諸国を巡り、安房国図・上総国図などとともにこの伊豆国図を描いた。寛政10年(1798)幕府は蝦夷地調査のため幕吏を派遣することとし、近藤重蔵にクナシリ・エトロフの調査を命じた。寛政11年(1799)重蔵は、地理知識と地図作製の能力のある島之允にを同行させ、松前・根室・箱館など北海道を一周して探査した。のち島之允は御普請役当分御雇として重蔵に同行し再び蝦夷に赴くが、中途から松平忠明の随員となり、蝦夷地の調査に参加する。寛政12年(1800)忠明は松前を経て江戸に帰るが、島之允も随行して江戸に帰る。文化5年(1808)8月12日、島之允は江戸で流行していた麻疹にかかり急病死した。49歳。村上貞助(のちに養子となる)、間宮林蔵などの門弟がいる。著書:「甲斐国奇石録」、「伊豆国奇石録」、「蝦夷島奇観」、「東蝦夷地名考」、「松前箱館奥図」。

墓は、玉林寺墓地(谷中1-7-15)。墓地入り口の階段を上がり正面方向。シュロの木の左側通路奥左側。善光寺坂門前の石柱に「秦檍丸先生墓」とある。正面「秦檍丸君墓」。「無庵建了信士」。墓のそばに顕彰碑がある。