畑 一岳/畑 一嶽(はたいちがく)     嘉永2年12月〜明治43年11月18日(1849-1910)

    名典獄と評された小菅監獄典獄。父、正五位勲四等会津藩士赤羽源吾信晴(二男)。妻、ユリ。岩城国北会津郡内小田垣二番町に生まれる。旧藩士族。長じて北海道に渡り、在道25年という長期間主に警察・監獄畑にあり、開拓草創の苦労を重ねる。明治7年(1874)北海道開拓使等外三等出仕。明治13年(1880)札幌監獄本署長(初代札幌刑務所長に該当)。明治19年(1886)1月札幌県廃しのため北海道警部・監獄署長。明治20年(1887)北海道庁典獄。同9月北海道庁警部。明治24年(1891)浦河・沙流・新冠・静内・三石・様似・幌泉郡長。明治31年(1898)宮城集治監典獄。明治40年(1907)小菅監獄典獄。明治43年(1910)の小菅の大水害に際し、陣頭指揮をしたのが災いし、現職のまま病没し、”水典獄”と呼ばれ惜しまれた。明治43年(1910)6月正五位勲四等に叙される。葬儀は、現足立区町屋葬祭場で執り行われたが、数百人の会葬者が集まり、名典獄にふさわしい死に花を咲かせた。62歳。(出典:名典獄評伝)

典獄: 旧制の監獄の長。

墓は、領玄寺墓地(谷中4-3-5)。山門より左奥。領玄寺貝塚の手前。正面「畑家之墓」。「功徳院釈一乗高嶽居士」。