日高秩父(ひだかちちぶ) 嘉永5年12月6日〜大正9年4月19日(1852-1920)
東宮学問所御用掛・宮中顧問官。名、光太郎のち秩父。号、呆呆谿(ばいけい、呆呆で1文字)。父、太政官主記日高頼長(1818-1885)(長男)。母、マサ(1852-1914)。栃木県出身。書を長三洲に学び詩書を能す。初め東京府に出仕。ついで陸軍省・明治15年(1882)宮内省仕官。明治36年(1903)内大臣秘書官。梨本家令。明治40年(1907)小松宮侍従。梨本宮御用掛。東宮学問所御用掛兼宮中顧問官。国定教科書(習字原本)「小学校国定書き方手本」の執筆者・制定官。正五位勲三等。69歳。夫人里起子は、蘭医呉黄石(墓は、多摩霊園)の娘、統計学者呉文聡の妹で、母セキは、箕作阮甫(墓は、多摩霊園)の長女。著書:「日高秩夫書諸家漢詩帖」。
※ 号のバイの字が、現在ないので、"梅"を使い、日高梅渓と書かれることもある。
※ 日高里起子の兄弟: 姉(長女)ヤス、のちヤヘ、嘉永2年4月29日〜慶応2年6月27日。兄(長兄)呉文聡、統計学者、嘉永4年11月27日〜大正7年。兄(二男)、半三、生れてすぐに死ぬ。姉(二女)クミ、柏原浩溟に嫁す。離別後明治女学校教員のち校長。安政2年1月5日〜明治43年7月13日。妹(三女)フミ、文久3年8月〜慶応元年5月21日。弟(三男)呉秀三(墓は、多摩霊園)、精神病学者・医史学者。
墓は、谷中霊園 甲6号8側。北面。正面「日高秩父/妻里起子 之墓」。里起子の歿年の記載なし。