平山陳平(ひらやまちんぺい)     天保10年5月25日〜明治22年1月25日(1839-1889)

    自由民権家。父、幕臣加藤進左衛門(六男)。甲斐国甲府出身。維新後、駿河に移住。平山省斎の門に入る。のち養子となって家塾を預かる。明治8年(1875)「提醒社」に入り、静岡新聞の編集長を務める。また、「鶯蛩新報」や「函右日報」などの民権ジャーナリズムの創刊もおこなう。明治12年(1879)1月最初の本格的な自由民権運動演説結社「参同社」を組織。明治14年(1881)静岡改進党で中心となり活動したが、2年後に離党。明治17年(1884)4等警視。明治19年(1886)非職。のち、静岡大務新聞記者。明治21年(1888)伴任1等下。警視属書記局記録課長。従七位。妻、真崎歌子(嘉永3年2月25日〜明治19年12月18日)。51歳。

※ 「函右日報」:明治12年(1879)年6月1日はじめ「参同社」から発刊。社主榊原正吉、編集長日野清芳、印刷兼発行人平山陳平。翌年1月「参同社」を離れ、平山の兄で県会議長の磯部物外を社長に迎えて「函右日報社」を設立し、そこから発刊する。[静岡県近代史研究会資料参照]

墓は、谷中霊園 乙9号1側。階段上。正面「従七位平山陳平/陳平妻真崎歌子 之墓」。墓碑は平成22年7月に改修。