廣瀬辰五郎(ひろせたつごろう)・初代 ?〜明治21年6月2日(?-1888)
江戸千代紙「いせ辰」初代。千葉県出身。農家出身。日本橋の団扇問屋伊勢屋惣右衛門に奉公、のち、認められのれん分けをしてもらい元治元年(1864)錦絵と団扇製作の問屋「いせ辰」を開店。明治維新の混乱の中江戸にとどまり、のれんを守る。「真誉覚法到岸信士」。
廣瀬辰五郎・2代 明治10年〜昭和21年10月5日(1877-1946)
江戸千代紙「いせ辰」2代。名、芳太郎。東京日本橋出身。父を手伝い明治3年(1870)店を神田に移し、文明開化の波を読み、築地居留地や横浜外国商館に千代紙細工や錦絵などを販売、商売を広げ、欧州に輸出も手掛けた。河鍋暁斎・柴田是真らの画家と交流し、その公私の趣味は3代目に大きく影響した。「雲晴院辰誉吉祥居士」。
廣瀬辰五郎・3代 ?
江戸千代紙「いせ辰」3代。名、鐘三郎(墓誌にない)。ただし、墓誌によると3代目は「廣瀬正雄妻喜久江」とある。
廣瀬辰五郎・4代 明治39年?〜平成6年11月10日(1906?-1994)
江戸千代紙「いせ辰」4代。本名、廣瀬正雄。東京神田出身。幼児期より錦絵を収集。清水清風・淡島寒月・井上和雄・石井研堂らと交流し、錦絵鑑定に見識が高い。千代紙の技術でナプキンを作り、ドイツ系商社を通し、欧州に販売した。店も発展したが、関東大震災で紙芸に関する収集品や命綱の千代紙の板木を焼失。息子や弟子らと苦労の末、約1千種の江戸千代紙版木を復活。戦後谷中に住み、のち、谷中に工房を作り、谷中三崎坂に店を出す。著書:「錦絵の改印襲証」、「宝船集」、「江戸絵噺いせ辰12ヵ月」、「江戸の千代紙いせ辰3代」、「おもちゃ絵江戸庶民のエスプリとデザイン」。「秋月院正誉念道居士」88歳。
墓は、谷中霊園 甲10号6側。正面「廣瀬家之墓」。現在では5代目にあたる四人の兄妹が暖簾をまもっている。