堀直寄(ほりなおより)    天正5年〜寛永16年(1577―1639)

    直寄の父直政は、奥田姓であったが、堀家の家老であった奥田直政が堀姓を許されていたもの。堀直寄は、宗家堀秀治に属して越後坂戸城にて1万石を遇される。慶長5年(1600)上杉遺民一揆を鎮圧した功により、徳川家康・秀忠より賞される。慶長7年(1602)蔵王堂城に移り5万石となる。堀秀治の家老たる堀直政が慶長13年(1608)亡くなると、慶長15年(1610)父直政の子異母兄弟の直清と直竒は対立する。宗家家老の座を巡って激しく争う。この内紛によって宗家の村上堀家が改易となり、直竒は減封、しかし、かねてより直竒は大坂の陣の功績や、駿府城の火災の時には一番に駆けつけるなどの実績から、独立大名となった。信濃飯山城4万石をかわきりに出世し、大坂の陣の戦功もあってついに越後村上城10万石を得る。越後村松藩初代藩主は堀直時(なおとき)であるが、堀直寄の直次の子直定が幼くして亡くなり二男の直時が継いだが、村上藩は断絶した。幕府は堀家の絶えるのを惜しみ、直定の叔父である堀直時に村松3万石が与えられたという(村上藩の始まり)。法名凌雲院殿前丹州太守鉄団宗釘大居士。