堀越角次郎(ほりこしかくじろう)・初代 文化3年〜明治18年(1806-1885)
実業家で豪商。丸文株式会社創業者。旧名、田島安平。父、田島安兵衛。上州群馬郡藤塚村(高崎市藤塚町)出身。少年の頃より生活態度が悪く家を追い出され江戸に出て公事師をしたが嫌い、商人に転向、古着小切の江戸市中で行商を始める。ある日同郷の堀越文衛門(屋号、丸文)と出会い、その援助をもって弘化元年(1844)本船町に反物屋を開き、堀越角次郎を名乗った。その後、時を得て織物の輸入取引で財を築いた。また、銀行の無い時代で洋学者たちの資金を預かり利殖をはかることも行い、福沢諭吉も利用したらしい。元治元年(1864)堀越文右衛門の次男の茂三郎を養子にし、明治12年(1879)2代目堀越角次郎を継がせた。80歳。「弘昌院朴翁安平居士」。
堀越角次郎(ほりこしかくじろう)・2代 天保10年〜明治29年(1839-1896)
呉服太物商。幼名、茂三郎。父、堀越文衛門(屋号、丸文)(次男)。上州多故郡吉井村(群馬県多野郡吉井町)出身。嘉永4年(1851)江戸に出て丸文大伝馬町店に勤務。元治元年(1864)初代堀越角次郎の養子となる。妻、ナヲ子は、初代角次郎の長女。明治20年台にモスリン価格が下落した折に、その対策として同じ洋反物問屋の杉本甚兵衛と問屋仲間の組合「モスリン商会」を設立。このとき、福沢諭吉の推薦で日比翁助(後の三越の初代専務)を支配人とした。明治28年(1895)東京モスリン紡織株式会社を杉村と設立。しかし、設立直前に死去。57歳。「弘泰院義山富茂居士」。
堀越角次郎(ほりこしかくじろう)・3代 明治4年7月21日〜明治29年9月3日(1871-1896)
日本橋の豪商。幼名、真次郎。父、二代目角次郎(長男)。東京日本橋区通旅籠町出身。明治9年(1876)慶応義塾幼稚舎に入学。20歳で卒業し家業に就く。明治26年(1893)米国シカゴに於いてコロンブス記念世界博覧会を視察し、世界の実勢を知る。慶応大学部設立に巨金を寄付する。26歳。「弘全院和洞富直居士」。
堀越角次郎(ほりこしかくじろう)・4代 明治18年〜昭和25年(1885-1951)
呉服太物商。幼名、善七。父、2代角次郎の4男で3代角次郎の弟。明治29年(1896)角次郎を襲名。慶応大学卒業。のち、欧米各国を漫遊。多額納税者。堀越合資代表。昭和4年(1929)紺綬褒章受章。勲五等瑞宝章。妻は、侯爵松方正義の5女梅子。66歳。「弘宝院誠岳理山善七居士」。
墓は、乙5号1側(低地側の飛び地)。石柵に囲われていて入れない。墓石の周囲の撰文は福沢諭吉との話もあるが未確認。中央が初代、向かって右側後ろが二代、その右側後ろが三代の墓。初代、二代の石塔の周りの墓誌は福沢諭吉の撰文との話もあるが未確認。初代墓左右前面は女性。