細川潤次郎(ほそかわじゅんじろう)    天保5年2月2日〜大正12年7月20日(1834-1923)

    高知藩士・官僚・法学者・教育家・男爵。号、十州。父、藩の儒学者細川延平(長男)。高知出身。はじめ藩校に学び、安政元年(1854)長崎に赴き、西慶太郎や名村八右衛門から蘭学を学び、高嶋秋帆から砲術を学ぶ。安政5年(1858)江戸に出て、中浜万次郎について英語を学び、海軍操練所でも兵法・航海術勉を学ぶ。文久元年(1861)高知に戻り制度改正御用掛となり、藩政の改革に尽力し、福岡孝弟らと土佐藩の新しい藩法である「海南政典」・「海南律例」の編纂を行う。また、藩校教授として洋学を教えた。維新後は明治政府に出仕し官途につき、「新聞紙条例」、「出版条例」、「戸籍法」を起草。民部省、工部省と勤め、明治4年(1871)4月サンフランシスコ博覧会の視察のためアメリカに渡り、10月に帰国する。帰国後は左院・正院・文部省・元老院と要職を歴任。柳原前光・福羽美静・中島信行とともに「国憲取調委員」に任じられ、刑法・治罪法・陸海軍刑法・日本海令草案・医事法・薬事法の起草に活躍。明治14年(1881)司法大輔。後に貴族院議員となり、明治24年(1891)貴族院副議長、明治26年(1893)枢密院顧問官、明治29年(1896)「古事類苑」編纂総裁などを務めたが、政界を引退し、華族女学校校長・女子高等師範学校校長・学習院院長心得など教育に尽力した。明治33年(1900)男爵。明治42年(1909)文学博士。日本学士院会員。90歳。

細川源三郎(ほそかわげんざぶろう)     ?〜昭和17年(?-1942)

     海軍兵学校文官教授(明治34年〜大正4年)。父、細川潤次郎(三男)。従三位勲二等。

墓は、谷中霊園 乙13号右4側。「細川家累代墓」。墓誌なし。