市橋長利(いちはしながとし) 永正10年〜天正3年3月13日(1513-1575)
市橋長勝の父。三条家末流で先祖が美濃国池田郡市橋郷に居住していたことから"市橋"と名乗る。名、九郎右衛門、壱岐守。剃髪号、一斎。美濃国青柳城に住み、のち同国福塚に移り、織田信長に仕える。永禄6年(1563)4月高木貞久に信長への降伏を仲介。大河内城攻め、小谷城攻め、姉川の戦い、左和山城攻めなどに出陣。天正3年(1575)織田信忠が家督相続すると信忠に仕える。のち、剃髪し、本能寺に変後は、豊臣秀吉に仕える。京都大徳寺総見院に墓がある。「延命院殿節翁宗竹大居士」。
市橋長勝(いちはしながかつ) 弘治3年〜元和6年3月17日(1557-1620)
安土桃山時代の武将。美濃池田郡市橋郷の豪族・市橋長利の長男。市橋長政の叔父。織田信長の家臣であったが、信長没後、豊臣秀吉の家臣となり、九州征伐・小田原征伐に参陣し、朝鮮出兵では肥前名護屋に在陣した。秀吉没後は、慶長5年(1600)家康の会津征伐に従軍。この間に居城である今尾城が石田三成軍の攻撃を受けたが引き返して撃退した。関が原合戦時において豊臣方が徳川家康の宿所をなくすために進路となる交野地方の寺や民家を焼き払ったが、長勝はこの戦術を見越して星田地区を防備、家康の宿所を確保した。この戦功にて徳川家康に認められる。慶長15年(1610)伯耆矢橋(ほうきやばせ)藩主。大阪の陣の功により元和2年(1616)越後三条藩創藩時の藩主41300石。子がなく没後近江国(滋賀県)仁正寺(西大路とも)に没収となったが甥の市橋長政の後継が認められた。
墓は、谷中4-2-5 瑞輪寺。日本美術院の裏手辺りで日本美術院から遠い側。市川家墓石は複数あるが、中央の大きい、ひときわ古いもの。土台石にかすかに「長勝」と「元和六年」の文字が読める。一橋長利は、墓誌のみ。