一木喜徳郎(いちききとくろう)    慶応3年5月7日〜昭和19年12月17日(1867-1944)・・・生誕日4月4日説あり

    法学者・文部大臣・宮内大臣・男爵。静岡県出身。旧名、丘平。従一位勲一等。父、遠江掛川藩士岡田良一郎(次男)。兄は京都帝国大学総長・文部大臣の岡田良平。明治6年(1873)同郷の資産家一木喜三司の養子となる。明治9年(1876-1886)私塾「翼北学舎」を開く。明治14年(1881)上京し、大学予備門に通う。明治16年(1883)東京帝国大学文学部入学。明治19年(1886)法科大学に編入。明治20年(1887)東京帝国大学卒業し、内務省に入り内務書記官となる。明治22年(1889)家督を相続。明治23年(1890)地方制度研究のため自費で独逸留学。明治26年(1893)帰国し復職。明治27年(1894)東京帝国大学法科大学教授。明治30年(1897)古社寺保存会委員。明治32年(1899)法学博士。明治33年(1900)勅選貴族院議員。明治35年(1902)第1次桂太郎内閣法制局長官兼恩給局長。明治39年(1906)帝国学士院会員。明治41年(1908)内務次官。明治45年(1912)第2次桂太郎内閣法制局長。大正3年(1914)第2次大隈内閣文部大臣。大正4年(1915)内務大臣。大正6年(1917)枢密顧問官、臨時教育会議委員。大正8年(1919)臨時教育委員会副総裁、男爵。大正9年(1920)皇典講究所(国學院大学)所長。大正10年12月〜昭和元年4月(1921-1926)武蔵高等学校初代校長。大正11年(1922)内大臣。大正13年(1924)中央教化団体連合会会長・枢密院副議長。大正14年(1925)宮内大臣。昭和9年(1934)枢密院議長・「大日本報徳社」々長。在任中、天皇機関説の提唱者として弟子の美濃部達吉とともに右翼の非難を受けた。昭和11年(1936)の2.26事件後は、一切の官職を辞退した。昭和15年〜19年(1940-1944)根津育英会理事長。昭和17〜19年(1942-1944)名誉校長。

一木猶太郎(いちきゆうたろう)    明治27年〜昭和54年4月24日(1894-1979)

    横浜地方裁判所検事正。父、一木喜徳郎(長男)。大正7年(1918)東京控訴院検事。昭和16年(1941)検事正。東京刑事地方裁判所検事兼東京区裁判所検事。東京控訴院検事。従四位勲四等。85歳。

一木允(いちきまこと)    昭和4年8月8日〜昭和60年8月12日(1929-1985)

    松下電器システム推進部長。古屋大学工学部卒。昭和29年(1964)松下電器に入社。OAシステムの専門家で、59年5月新設されたシステムエンジニアリング本部のシステム推進部長。しかし、昭和60年(1985)8月12日翌日の大阪での会議に出席するために乗った日航123便が墜落、死亡した。著書・雑誌記事:「低周波増幅回路の設計」、「各種拡声機配線図集」、「電子部品活用マニュアル 」、「電子部品活用マニュアル : エレクトロニクス部品と機器設計の基礎」など。
※ 故人歴情報は、森光俊様のご提供。

墓は、乙9号14側。 老中阿部正弘墓のある石塀側。正面「一木家墓」。喜徳郎:「梁舟院殿一徳執中大居士」。猶太郎:「博峯院明道猶軒大居士」。允:「慈照院秋光妙允居士」。