生駒高俊(いこまたかとし) 慶長16年〜万治2年6月16日(1611-1659)
讃岐国高松藩の第4代藩主・出羽国矢島藩初代藩主。幼名、小法師。父、第3代藩主生駒正俊。母、母円智院(藤堂高虎の養女:1649.6.29没)。正室は土井利勝の娘。兄弟:藤堂高義室天正院(池田輝澄室)。生駒正慶(隼人)。藤堂長政室。子:生駒高清・生駒俊明・生駒親興(兄の高清の養子)・京極高房室・原田宗馭室円意。元和7年(1621年)父の死去にともない家督を相続。幼くして家を継いだ為、伊勢国津の藩主で外祖父藤堂高虎と叔父高次が後見するが、高俊は男色酒色にふけり、民政をかえりみなかったため、家中では主導権の派閥抗争が発生し(生駒騒動)江戸幕府の命により改易となり、生駒高俊は寛永17年(1640)に領地を没収され、代わりに堪忍料として矢島1万石を与えられた。高俊は矢島の八森陣屋に移り、終世矢島で軟禁生活を送った。「自性院芳岩道栄大居士」。
生駒親興(いこまちかおき) 生没年不詳
出羽国矢島藩第3代藩主。父、生駒高俊(三男)。2代藩主で兄の生駒高清の養子となるが、高清は弟の俊明に2000石を与えたため、生駒氏は大名の資格を失い、生駒氏は8000石の江戸詰交代寄合表御礼衆となった。そのため、矢島の統治は、山本一党と呼ばれる家臣たちにゆだねられた。しかし、山本一党は暴政の限りを尽くしたので延宝6年(1677)延宝騒動または仁左衛門騒動と呼ばれる直訴騒動が起きた。たぶん「興善院殿瑞慶紹運大居士」。
養福寺墓地(西日暮里3-3-22)。参道左の植え込みの中にある宝筐印塔に合祀。高俊の墓は、矢島の龍源寺にあるという資料があるので、供養塔の可能性がある。