稲葉正成(いなばまさなり)     元亀2年〜寛永5年9月17日(1571-1628)

     美濃国十七条藩主・越後国糸魚川藩主・下野国真岡藩初代藩主・正成系稲葉家宗家初代。父、林政秀(次男)。母、安藤某の娘。正室、稲葉重通の娘。継室、斎藤利三の娘で稲葉重通の養女福(春日局)。継々室、山内康豊の娘。
はじめ豊臣秀吉に仕えたが、秀吉の命で小早川秀秋の家臣となり、関ヶ原の戦いでは、秀秋を東軍に寝返らせることに成功した。慶長7年(1602)秀秋の死去で小早川氏が断絶すると浪人となり、美濃の稲葉重通の婿となり稲葉姓を名乗る。慶長9年(1604)7月家康の嫡孫竹千代(徳川家光)の乳母の募集に妻の福が志願して採用されると、福と離縁した。離縁の理由には諸説ある。後に結果として徳川氏の家臣として仕える。慶長12年(1607)に美濃国内に1万石の領地を与えられ美濃国十七条藩主となる。のち家康の孫の松平忠昌の家老となる。大坂夏の陣では戦功を挙げ、元和4年(1618)越後国糸魚川藩主となる。寛永元年(1624)忠昌の越前転封に反対し再び浪人となるが、寛永4年(1627)再び召し出され下野真岡藩初代藩主となる。従五位下佐渡守。

稲葉正吉(いなばしょうきち)      元和4年〜万治元年(1618-1658)

     江戸幕府院番頭。父、稲葉正成(三男)。母、山内修理康豊の娘。名、権之助。伊勢守。寛永5年(1628年)5月に兄稲葉正次(稲葉正成の子)は死去。嗣子の稲葉正能は幼少のため、弟の稲葉正吉が継いだ。寛永18年(1641)甲府在番。正保2年(1645)浅草観音堂御普請奉行。慶安3年(1649)御書院番頭。慶安4年(1650)諸大夫改め伊勢守。男色のことで家臣に殺される。39歳。妻は太田資宗の娘。子(長男)に稲葉正休(いなばまさやす:1640-1684)。

※ 母は、春日局の二男だとする説があるが、1604年に竹千代の乳母となり離婚していることから、1618年に生まれた正吉が春日局の子とするのには矛盾がある。また、子の正休が春日の局の孫という説もあり得ない。

墓は、現龍院墓地(上野公園15-25)。正成:「現龍院輝宗道蓮居士」。正吉:「瑞雲院性山鉄心居士」。正吉墓は、未発見。