井上 毅(いのうえ こわし)    弘化元年12月18日〜明治28年3月15日(1844-1895)

    明治時代の官僚および政治家。本姓、飯田多久馬。号、梧蔭。肥後国坪井町竹部(熊本)出身。父、熊本藩家老長岡監物家臣飯田権兵衛(三男)。飯田家は下級武士で貧乏な暮らしをしていた。毅は、4・5歳で百人に一首を暗誦、9歳で米田家の塾「必由堂」に入り抜群の成績を修め、一人扶持を与えられる。14歳で儒学者木下犀漂の門下生となり、門下生の三秀才と言われる。文久2年(1862)抜擢されて藩校「時習館」の居寮生となる。慶応元年(1865)居寮生を終え、慶応2年(1866)第2次長征戦争に従軍。また、同家老長岡家の家来井上穆(-1905:正五位)を継ぎ、毅と改名。慶応3年(1867)幕府の学校「昌平黌」で学ぶが、戊辰戦争のため帰藩し長崎でフランス学を修めた。明治3年(1870)上京し大学南校の少舎長として初めて新政府に出仕する。翌年司法省に入りフランスやドイツに留学し近代司法制度を学ぶ。明治5年(1872)司法卿江藤新平の欧州法律制度調査の随行員としてフランス・プロセインで法律制度を学ぶ。明治6年(1873)帰国。明治8年(1875)調査研究の成果を「王国建国論」として司法省明法寮から出版。やがて才能を大久保利通、岩倉具視、伊藤博文らに認められた。その後、伊藤博文らと大日本帝国憲法や皇室典範、教育勅語、軍人勅諭などの草案起草にあたった。明治10年(1877)太政官大書記官。明治11年(1878)内務大書記官。明治23年(1890)枢密院顧問官。明治26年(1893)第2次伊藤内閣で文部大臣となる。明治28年(1895)子爵。53歳。著書:「梧蔭存稿」。

墓は、瑞輪寺(谷中4-2-5)。山門より20mほどの左側の無縁塔横通路を入ったところ。正面「正三位勲一等子爵井上毅墓」。山門の額は井上毅の書。