井上正鉄(いのうえまさかね)    寛政2年8月4日〜嘉永2年2月18日(1790-1849)

    江戸後期の神道家。本姓、安東。幼名、喜三郎。江戸出身。父、上野国館林藩士の安東真鉄(まかね)(次男)。母方の縁者の富田家の養子となり、井上姓を名乗る。国学・易を学び、感通術(呪術的医療)を行った。国学者・歌人の賀茂真淵(1697-1769)の弟子であった父の志を受け継ぎ、神祗伯白川家に入り、白河神道の流れをくむ神道禊教(みそぎきょう)を開祖。文化5年(1808)19歳の時より学問と修業のため全国を遊歴。息のはき方により身心の安定をはかり、難病もこれによって治癒するとの教説を立てた。幕末に流行した新しい宗教の一つで、江戸の武士や農民の間にひろがって行き、多くの信者を集めた。天保11年(1840)4月武州足立郡千住梅田村神明宮の神職となり、名を式部と改める。幕府の滅亡を予見し民衆の救済を説いたため、幕府の弾圧を受け、禊教教主として対立し天保14年(1843)三宅島に流罪。三宅島では、島民生活の改善に力を注ぎ、中でも、伊ヶ谷地区で水源を開発し水を確保した功績は大きい。その神秘的な行動に信者も多く、現在3千余の教会がある。嘉永2年(1849)三宅島で没する。60歳。明治2年(1869)赦免により蔵国足立郡梅田村に改葬した。明治5年(1872)教義の公然布教を許される。その後、明治12年(1879)谷中霊園に改葬。

墓は、谷中霊園乙9号8側。正鉄の墓は盛り土上の巨大石。正面「井上正鉄大人之墓」。父の名は、安真鉄ではなく安真鉄である。谷中霊園の中では、極めて大きな墓域にあり、「トウカミの井戸」跡がある。これは、「トウカミエミタメ」という祈りから呼ばれるようになったという。