井上廉(いのうえれん/いのうえきよし)    弘化2年〜大正3年2月18日(1846-1914)

    明治太政官期(明治4年7月29日〜明治18年12月22日)の内閣大書記官。父、幕府勘定所の下級役人である普請役の貫流左衛門(長男)。 井上家は砲術を職能とする御家人で、井上廉は、父の跡を継ぎ、河川工事の査定をはじめ、イギリス公使館の建設や和宮降嫁のおりの接遇のまかないなどの仕事をした。のち、井上姓を継ぐ。明治2年(1869)旧会津藩に若松県を開設する準備をするために会津に赴任。明治10年(1877)1月18日〜明治12年(1879)11月14日内閣少書記官。明治12年(1879)11月14日〜明治14年(1881)12月3日太政官権大書記官。正四位勲四等。68歳。

墓は、谷中霊園 甲2号11側。正面「正四位勲四等井上廉/妻 三千子 墓」。「泰徳院殿清廉日諦居士」。