石黒敬七(いしぐろけいしち) 明治30年8月10日〜昭和49年10月1日(1897-1974)
放送タレント・随筆家・柔道家。新潟県柏崎比角出身。家業の縮み商の七男として生まれたため"敬七"と命名された。早稲田大学柔道部にて主将を務め毎年一段ずつ昇段し五段になる。警視庁・拓殖大学・法政大学などで師範を務める。大正13年(1924)27歳のとき自ら"石黒敬七君を渡仏させる会"をつくり、資金を集め渡仏をはたす。フランスでは、画家の藤田嗣治らと交流、またパリのオペラ座で柔道のエキジビジョンを行う。またパリで新聞「巴里週報」を発刊。また、サロンド・トンヌ展に入選。体育系と文系の両面を持つ。昭和8年(1933)帰国し講道館審査員。戦後はNHKのラジオ番組「とんち教室」に参加し人気者となった。写真のコレクターとしても知られる。77歳。息子は、石黒敬章。
墓は、谷中 了ごん寺谷中墓地。甲7号5側に隣接。正面「石黒家之墓」。