伊集院兼常(いしゅういんかねつね)    天保7年〜明治42年6月20日(1836-1909)

    実業家・造園師。鹿児島出身。薩摩藩の営繕関係の仕事を手がけていたが、明治維新時には官僚のち軍人となり戊辰の役、鳥羽伏見、上野戦争に赴く。明治5年(1872)海軍8等出仕、海軍大主計。明治11年(1878)工部2等技手となり営繕局勤務。のち官を辞して実業界に転向し、参宮鉄道、大日本土木会社社長となった。建築や造園にも優れた審美眼を発揮し宮家の御殿などの建築に携わり、「鹿鳴館」の建築を担当し熟練の名を残す。また「近世の遠州公」とも称された。その一つの廣誠院(京都市中京区河原町通二条下る)は、明治25年(1892)伊集院兼常が東京から京都に移り、屋敷を構え約5年間住んだが、後に伊集院家より藤田家、下郷家を経て廣瀬家の所有となり、昭和27年(1952)より臨済宗の寺廣誠院 となった。また、市田氏対流山荘庭園(京都市左京区南禅寺福地町:未公開)は、明治30年ころ寺院の敷地であったこの場所に伊集院兼常が草居を建てたのが始まりで、小川治兵衛(植治)が庭園として創作したが、茶席など伊集院時代のものが残っているという。74歳。

墓は、谷中霊園 甲1号12側。福地源一郎墓の隣り。