伊東玄朴(いとうげんぱく)    寛政12年12月28日〜明治4年1月2日(1800-1871)

    蘭方医。佐賀県神崎郡出身。名、淵。字、伯寿。号、冲斎・長翁。本姓、執行。母方の親類伊東祐章の養嗣子となる。22歳で佐賀の蘭方医島本竜嘯に師事し、蘭学を修める。25歳で長崎の通詞猪股伝次右衛門とシーボルトに就いてオランダ語と蘭医方を学ぶ。文政9年(1826)江戸本所番場町と下谷長者町に開業。天保2年(1831)侍医となる。天保4年(1833)御徒町に移る。幕府侍医桂川国興に師事し西洋外科を学ぶ。玄朴は、シーボルト(1796-1866)が滞日した約5年の間に育てた門人にひとり。東京医学部の起源をつくった。 安政5年(1858)神田のお玉が池に種痘所を作り日本で初めて種痘をした。旧居も種痘所近く(台東区台東1丁目交差点角)にあった。万延元年(1860)種痘所は幕府直轄となる。翌年「西洋医学所」と改名。功績が認められ法印となり、長春院の号を賜る。伊東玄朴の私塾「象先堂」の門下に青木得庵(1814-1866)、久坂玄瑞(1840-?)、栗本節安(1840-1910)、津山真道(1829-1903)らがいる。72歳。著書:「医療正始」。

墓は、谷中4 天龍院。本堂うら墓地奥へ約50m、左側に見える住宅裏手。神式。「長春院楽翁玄朴法印」。都指定史跡。