岩井半四郎(いわいはんしろう)・初代    承応元年〜元禄12年(1652-1699)

    歌舞伎俳優。貞享・元禄時代の立役の名優。通称、長四郎。屋号、大和屋。天和(1681-1683)のころ大阪荒木座で山下半左衛門や坂田籐十郎に継ぐ評判を得て元禄2年(1689)大阪の座元となる。

岩井半四郎(いわいはんしろう)・3代    元禄11年〜宝暦9年10月26日(1698-1759)

    歌舞伎俳優。大阪出身。俳名、初代梅我。江戸で立役者となる。父、初代半四郎(三男)。元禄12年(1699)4月3日に父が没し、翌13年3歳で大坂岩井岩井座「南都十三鐘」に子役として若殿役。兄の2代目半四郎が正徳5年(1715)没したため、同年3代目半四郎を襲名し大坂座にて座本となる。父の17回忌追善興業として同年11月「幸持丸長者」に立役で相生岸太郎役。享保元年(1716)2月座本として「摂州佐井寺開帳」に若殿仙五郎役、この興業は大当たり。享保2年(1717)荻野金之丞座「弁天長者宇賀玉」に大殿実子長尾之助役。享保4年(1719)11月大坂嵐三右衛門座「金濫觴」に仲つがわかもんの介役。京に上り享保6年11月嵐三十郎座「大和歌伝授富蔵」に梅とう難波之助役。享保9年(1724)振りで大坂に戻り、享保14年(1729)11月姉川新四郎座「大名館万宝御蔵」に松田藤助役。久しく絶えていた岩井座の櫓を享保15年(1730)11月大坂に上げ、「陰陽蔵和合中富」に大江之助役。以後も大坂で座本を勤め享保19年(1734)11月「本朝舞楽始」、元文3年(1738)「八百屋お七恋緋桜」などを興業。元文5年(1740)大坂あやめ座「粧武者近江源氏」、寛保2年(1742)再び座本となり大坂に櫓を上げ、11月「三国伝来石」。寛保3年(1743)7月「女鳴神振分曽我」まで座本として興行したが、その後岩井座に櫓が上がることはなかった。同年11月大坂中村座十蔵座「二ツ引錦幔幕」、延享3年(1746)江戸に山本京四郎らと下り、11月市村座「伊豆日記」、寛延2年(1749)森田座、大坂に戻り三枡大五郎座。この頃より肥満となる。のち江戸に下ったが肥満のため舞台を勤めることはなかった。舞台は花やかで和事を本領とし、実事も兼ねた。宝暦6年(1756)隠居。宝暦9年江戸にて死去。初代から3代までは大阪で太夫元も兼ねた立役で、4代以降8代まで江戸の女方の家系となった。墓は、深川浄心寺より改葬。「善種院了縁日因信士」。
※ 故人歴情報は、森光俊さまのご提供。

岩井半四郎(いわいはんしろう)・4代     延享4年〜寛政12年3月29日(1747-1800)

     歌舞伎俳優。若女形。父、江戸の人形遣い辰松重三郎。3代目岩井半四郎の養子。家号、雑司谷屋・大和屋。4代市川団十郎(2代松本幸四郎)に師事。松本長松、松本七蔵および五粒聟と名乗り娘方で人気が出たが、のち岩井家の断絶を惜しんだ団十郎の取り計らいで明和2年(1765)岩井家の養子となり4代半四郎を襲名。丸顔のため「お多福半四郎」と呼ばれた。3代瀬川菊之丞とともに江戸の女方の双璧と称された。墓は、深川浄心寺より改葬。「天意院智泉日燿信士」

岩井半四郎(いわいはんしろう)・5代     安永5年〜弘化4年6月6日(1776-1847)

      歌舞伎俳優。若女形。江戸出身。父、4代岩井半四郎。俳名、2代梅我。家号、大和屋。俗称、杜若半四郎。天明7年(1787)11月初代粂三郎名で初舞台。文化元年(1804)5代岩井半四郎を襲名。「目千両の太夫」と言われた。天保3年(1832)俳名を芸名として杜若半四郎と名乗った。晩年は引退し剃髪し松下庵永久と号した。墓は、深川浄心寺より改葬。「天慈院永久日受信士」

岩井半四郎(いわいはんしろう)・6代     寛政11年〜天保7年4月8日(1799-1836)

     歌舞伎俳優。若女形。父、5代岩井半四郎(長男)。家号、大和屋。「深窓院梅我日鮮信士」

岩井半四郎(いわいはんしろう)・7代     文化元年〜弘化2年(1804-1845)

     歌舞伎役者。父、5世岩井半四郎(次男)。6代目の弟。俳名、初代紫若。家号、大和屋。俗に「紫若半四郎」と言われた。

岩井半四郎(いわいはんしろう)・8代     文政12年10月2日〜明治15年2月19日(1829-1882)

     歌舞伎俳優。女形。父、7代岩井半四郎。俳名、2代紫若。江戸出身。天保3年(1832)岩井粂三郎(くめさぶろう)を名乗って初舞台。嘉永4年(1851)河原崎座で8代市川団十郎の相手役の立女方となる。元治元年(1864)父親の前名岩井紫若の2代目を襲名。明治5年(1872)8代目岩井半四郎を襲名。明治7年(1874)中村座座頭。「貞松院修徳日厚信士」

岩井半四郎(いわいはんしろう)・9代     明治15年〜昭和20年5月26日(1882-1945)

     歌舞伎役者。女形。父、4代岩井粂三郎。5代岩井粂三郎。日本舞踊の普及をはかるために岩井流初代宗家として流派をおこした。「紫香院燕子日信士」

10代岩井半四郎(1927.8.8-)は、俳優名として昭和26年(1951)市川猿之助門弟で、初代花柳寿太郎の長男市川笑猿(本名:仁科周芳:にしなただよし)が襲名し現在に至る。長女は女優の岩井友見、次女は女優の仁科亜季子、三女は女優の仁科幸子。

墓は、本寿寺(谷中1-4-9)。山門を入り左側の墓地。3世から9世まである。墓碑の右側に墓誌があるが、墓碑に記載されている内容に一部重複し、西川氏と兼用している。また、3世岩井紫若の墓碑がある。