岩田三蔵(いわたさんぞう)     文政5年〜明治20年3月某日(1822-1887)

    大蔵官吏。名、信卿。通称、三蔵。下総香取郡(千葉県)出身。幕府に出仕し、炮兵指揮官となり、のち御徒目付。慶応2年(1866)函館奉行小出大和守秀実を正使とする国境協定のための遣露使節に随行。マルセイユ・パリを経てペテルブルグに赴く。交渉終了後、パリで徳川昭武に会い、マルセイユ経由で慶応3年(1867)5月に帰国。維新後、民部省出仕。印刷事監工審査。大蔵吏。明治11年(1878)印刷局1等技手。正七位。66歳。

※ 遣露使節:カラフトの国境画定交渉が失敗し画定のないまま、ロシアが南下してきたため、箱館奉行兼外国奉行小出大和守と目付石川駿河守ら総勢19名が慶応2年(1866)ペテルブルグにおいて国境交渉をおこなった。この時も画定交渉は失敗、翌年2月カラフトを両国雑居地とするカラフト仮規則が締結された。実際に国境が画定するのは、明治8年(1875)の樺太千島国境条約である。

墓は、谷中霊園 乙3号3側。正面「正七位岩田三蔵墓」。来歴記載あり。