葛野九郎兵衛定之(かどのくろべいさだゆき) 天正16年〜明暦3年1月15日(1588-1657)
江戸初期の葛野流太鼓の祖。名、定之。幼名、小十郎のち勝九郎。祖父信濃守は本願寺の侍だったが、石山合戦で豊臣秀吉と戦い討ち死に。父、久兵衛は病死。祖母の手で育てられる。ややこ踊りの舞手祖母が太鼓(おおつづみ)を勧め13歳のとき、観能の宴で太閤秀吉に才能を認められ、16歳で豊臣秀頼付きの役者として召し出される。当時の名人大倉流4世大蔵平蔵正氏(右衛門)に師事することとなり、さらに技を磨く。師没後、西川等因に就いてさらに研鑽。のち、徳川頼宣に仕え、元和元年(1615)ともに紀州に下り、厚遇を受ける。福島正則の推挙で徳川家康に仕える。紀州徳川家の要望で身分は紀州侯の家臣として家康に兼仕となる。一代で葛野家の興隆の礎を築いた。常在寺の開基との資料もある。
墓は、常在寺墓地(谷中5-2-25)。山門より左前方、その形から遠目にも分かり易い。「雷音院調真日楽居士」。墓所には、代々の墓が並ぶ。
2代、定吉(1686.12.6没)、「本覚院宗貞日在霊真」。3代、定政(1648-1715.8.20)、「本光院瑞如日称居士」。4代、政賀(1683-1750)、「仁寿院楽山日翁居士」。5代、知定(1802没)、「永住院常唱日眼居士」。6代、定恒(1801.3.11没)、「楽音院仁譲日義居士」。7代、均定(1819没)、「俊智院禎真日良居士」。8代、真敬(1882没)、「久成院定信日照居士」。