覚王院義観(かくおういんぎかん) 文政6年〜明治2年2月26日(1823-1869)
上野戦争時の寛永寺執当職。武州新座郡根岸村出身。本名、金子劇蔵。出家名、堯運。東叡山大慈院堯覚の弟子となり、ついで真如院義厳の弟子となる。26歳で住職となり、輪王寺宮執当覚王院となる。慶応4年(1868)寛永寺を彰義隊の拠点とさせた。同年5月上野戦争で徳川方彰義隊が敗れたため、公現法親王を戴き会津若松や仙台の眺海山仙岳院に逃れたが、9月に捕らわれ東京に移された。罪状確定前に病死した(自殺説あり)。47歳。輪王寺宮公現親王より寂静院の号を賜う。
墓は、真如院谷中墓地。場所は徳川慶喜墓の背中方向(北方向)に当たるが50〜60mほどの距離はあるので、管理事務所前から舗装通路を東方向に進み、乙8号2側標識の舗装通路向かい側の養寿院谷中墓地に入り、階段を下りて、左に約30mほどのところにアルミフェンスで囲まれた一角が真如院谷中墓地である。当該墓石は、フェンス入り口から左奥。石塔の文字「寂静心院義観塔」が新しく彫り直して読み易くしてある。