寛永寺(かんえいじ)    創建:創建:寛永2年(1625)

場所:台東区上野桜木1-14-11
アクセス:JR上野駅公園口より公園内を通り東京芸術大学方面に抜ける。芸大通りを北へ約200m、交差点を右に折れ約300mの突き当たり。

※ 飛び地: 慈眼堂(両大師)・清水堂・時の鐘・精養軒前大仏山(現、パゴダの所)の大仏。
天台宗。東叡山寛永寺円頓院。本尊:薬師如来(木造:伝教大師作)。ほか、日光菩薩(木造;慈覚大師作)・月光菩薩(木造:慈覚大師作)。元和8年(1622)二代将軍秀忠は、天海大僧正のために上野の山の17万坪の地に五万両と高輪御殿を添えて天海僧正に寄進し創建が決められた。しかし、その翌年の7月には、将軍が三代の徳川家光となったたため、実際に寺の創建に当たったのは家光で、本坊として、高輪御殿の移築が今の東京国立博物館の地に完了したのが寛永2年(1625) の10月、これが、 東叡山寛永寺の正式の創建となる。"東叡山"とは、東の比叡山の意味。寺号の"寛永寺"は、年号を採ったもので、延暦寺と同様である。その後の造営も比叡山延暦寺に倣った。この時点での寛永寺はまだ徳川家の菩提寺ではなく、祈祷寺(祈願寺)だった。その後、徳川家の数々の庇護を得て拡大し、三代将軍家光の死(慶安4年(1651)) を契機に祈祷寺と共に、菩提寺としての性格をもつこととなった。さらに、四代家綱、五代綱吉の両将軍が増上寺でなく上野で葬儀をし、その霊廟も上野に設けたため、寛永寺は完全に菩提寺も兼ねることとなった。1800年代前期には寺数1851ヶ寺にもおよび江戸期の東叡山が天台一宗の総本山とも言うべき立場となった。また、幕末には固定収入が35000石を越したという。だが、 その寛永寺は戊辰戦争で全山殆どを失い、 その権威は急速に落ち、 やがて天台一宗は比叡山の下に統一される。現在の寛永寺は、境内地は江戸期の十分の一の約3万坪で、 堂宇としては、 明治12年(1879)に川越喜多院より移築した根本中堂、 徳川家霊廟(重要文化財)、 清水堂(重要文化財)、 辯天堂、 開山堂(両大師)、本坊表門(重要文化財)、釈迦堂および子院19ヶ寺がある 。


寛永寺中堂

寛永寺中堂は東叡山寛永寺円頓院36ヶ院の総本堂だった。元禄11年(1698)に五代将軍徳川綱吉によって創建され、元は現在の上野公園大噴水付近にあった。本尊は薬師如来(伝教大師作、元禄9年(1696)5月に松平定直が江州矢造村石津寺より移す)で、別名・「瑠璃殿」と称した。両脇侍の月光、日光像は松平清武が出羽立石寺からの招来である。同時に文殊楼(吉祥閣ともいう。現在は清水堂下辺りに礎石のみが残る)や仁王門も造営された。しかし、中堂の落慶式の3日後、「瑠璃殿」の勅額が京都から到着したその日に新橋を火元とした火災で本坊、厳有院霊廟、千院13坊、仁王門が焼失した。殆どが再建されたが、上野戦争で再び焼失。明治8年(1875)明治政府の許可を得て、東叡山の一坊の大慈院の寺域に復興。明治12年(1879)に川越喜多院(川越東照宮 )本地堂(寛永15年(1638)建立)を移転させて中堂とした。この正面にある「瑠璃殿」の勅額は、元の中堂に掲げられていた元禄2年(1689)の霊元天皇の筆(もしくは公弁法親王による上皇筆の模写)である。本堂前の大水盤は、元禄11年に根本中堂に奉納されたものを移転。また寛永寺通用門にはかつての勧学寮(了翁僧都が天和2年(1682)に創立した寛永寺の学寮)の表門を移転し使用している。


寛永寺墓地

第2次大戦で霊廟2万坪の大部分を焼失し、徳川家は先祖の永代供養を条件に寛永寺に移管。昭和23年(1948)1月に第一霊園(最も東側)が開園、その後第2、第3霊園も一般に開放した。このため、徳川家以外の墓碑に改葬してきたものを除き古いものはない。また、区画が整然としている。

徳川家霊廟

徳川将軍15人のうち6人(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)が埋葬されている。厳有院(家綱)霊廟と常憲院(綱吉)霊廟の建築物群は、旧国宝に指定されていた貴重な歴史的建造物であったが、昭和20年(1945)の空襲で大部分を焼失した。現在は焼け残った以下の建造物が重要文化財に指定されている。

厳有院霊廟勅額門(写真左)、同水盤舎(写真中)、同奥院唐門、同奥院宝塔
常憲院霊廟勅額門(写真右)、同水盤舎、同奥院唐門、同奥院宝塔


10代家冶、11代家斉の宝塔は厳有院(4代家綱)の霊廟の敷地(一のお霊屋)内に、8代吉宗、13代家定の宝塔は常憲院(5代綱吉)霊廟の敷地(二のお霊屋)内に立っている。また、13代家定夫人で島津家から入った天璋院なども二のお霊屋にある。なお、16代家達以降の墓は全部寛永寺内にある。

木造薬師三尊像

本堂(根本中堂)に安置されている。中尊も含め、3体とも立像である。中尊は滋賀県・石津寺から、両脇侍は山形県・立石寺から移されたもので、平安時代の作である。本堂内は非公開で拝観はできない。

著名人の墓
第2霊園のオペラソプラノ歌手(特に「蝶々夫人」の主演)の三浦環(1884-1946)、経済誌ダイヤモンド社社主の石川賢吉(1883-1964)、情話文学者。「祇園小唄」の作詞者の長田幹彦(1887-1964)、第3霊園では作家、中尊寺貫主の今東光(1898-1977)など多数がある。

その他については、当ツアーのページを参照願いたい。