第2代上総一ノ宮藩藩主。父、加納久儔(長男)。天保13年(1842)父の隠居に伴い家督を相続。嘉永2年(1849)大番頭、安政2年(1855)講武所総裁を兼任、安政4年(1857)奏者番、文久元年(1861)若年寄。
加納久恒(かのうひさつね) 弘化3年〜慶応3年7月29日(1846-1867)
第3代上総一ノ宮藩藩主。父、上総久留里藩主黒田直静(次男)。加納久徴の先養子加納久成が早世したため、養子に迎えられ、元治元年加納久徴の死去に伴い家督を相続。
加納久宜(かのうひさよし) 嘉永元年3月19日〜大正8年3月2日(1847-1919)
第4代上総一ノ宮藩藩主(最後)。父、立花種道(次男)。上総一ノ宮藩主加納久徴(かのうひさたか)の養子。慶応3年養父加納久恒の死去にともない家督を相続。明治2年(1869)版籍奉還により一宮藩知事。明治4年(1871)廃藩置県により免官。大学南校に学ぶ。諸学校の校長を歴任後、判事に転じ、のち検事となる。明治17年(1844)子爵となる。明治23年(1890)貴族院議員。明治27年(1894)鹿児島県知事となり西南戦争の荒廃の復旧に努めた。明治35年(1902)入新井信用組合(城南信用金庫の前身)を設立。また、産業組合会、帝国農会などの会長を務め殖産漁業に尽くした。 大正元年(1912)一宮町長。千葉一の宮に独立した墓碑がある。
加納久朗(かのうひさあきら) 明治19年8月1日〜昭和38年2月21日(1886-1963)
日本住宅公団総裁・千葉県知事。父、加納久宜(かのうひさよし)(次男)。千葉県出身。東京帝国大学卒業。明治24年(1891)横浜正金銀行に入行。大阪・ロンドン・北京・上海各支店を経て、大阪支店副支配人。カルカッタ支店長。ロンドン支配人。大正8年(1919)父の死去にともない子爵を襲爵。昭和9年(1934)ロンドン支店長。昭和14年(1939)国際決済銀行理事会副議長。帰国して昭和18年(1943)取締役。戦後は公職追放解除後、昭和25年(1950)函館ドック会長・国際文化振興会会長。昭和30年(1955-1959)初代日本住宅公団総裁。昭和37年(1962)千葉県知事。自民党の公認で当選したが「県政では誰の指図も受けない」と公言。千葉の開発政策を進める一方、県職員の隔週土曜日の休暇制度を実施しようとして自治庁に制止されるなど異色の知事として注目された。カナ文字論者でもある。また、吉田茂との姻戚関係にあり、国際的な活動に有利であったという。知事100日余りで急死。77歳。