川村雨谷(かわむらうこく)    天保9年8月8日〜明治39年12月29日(1838-1906)

    南画家・大審院判事。名、応心。字、広卿・守国。号、雨谷・休翁・陸蓮子・無生居士。俳号、烏黒。幼名、次郎太。通称、新助。父、幕臣川村幽対。江戸出身だが父の新潟奉行所勤務のため新潟で育つ。はじめ父に書画・詩歌・俳句を学ぶ。松尾柴山に画、杉浦南陽に漢籍、官老館に武術を学ぶ。安政3年(1856)家督を相続。慶応元年(1865)長崎奉行支配定役として長崎に赴く。3年の赴任の間、木下逸雲(1799-1866)・日高鉄翁(ひだかてつおう:1791-1871)らに師事、南画の画法を学ぶ。維新後は司法官として大阪、仙台、東京、松江などに赴任し、その後大審院判事にまで昇進し、明治31年(1898)辞してのち、下谷に移り、田能村直入・田崎草雲らと交遊し、篆刻(書画などに用いる印章彫)や俳諧も好んだ。判事の傍ら、明治15年(1882)第一回内国絵画共進会で「山水」・「梅」が銅賞、明治17年(1884)同第二回でも「山水」・「花卉」が銅賞となる。明治17年(1884)「東洋絵画会」結成に際で会員となり、明治30年(1897)には高森碎厳らと「東京南画会」を結成。門下に春田(寺田寅彦)、田能村小竹など。篆刻や俳諧・俳画を好み俳号を枯木庵烏谷という。東京下谷徒士町で没す。69歳。従五位勲五等。作品:「童子睡臥」、「与謝薫村肖像」など。

墓は、谷中霊園乙3号11側。円柱形の特徴ある墓標正面に「自得院応心無生居士」とある。