小出光照(こいでみつてる)/小出鉄之助    弘化2年〜明治7年(1845-1874)

    会津藩士。幼名、鉄之助。父、会津藩士篠田覚左衛。山川大蔵(浩)の義弟。妻、山川操(山川浩の妹)。小出只五郎の養子。藩校日新館に学び抜擢されて小姓となるが辞退し、江戸に出て古屋作左衛門に入塾し洋学を学ぶ。さらに欧州に行かんと脱藩し横浜に行くが、出航前に戊辰の役が起こり、国事に務める。維新後、弘前県中属。松前福山開拓支庁長。佐賀県大属のとき明治7年(1874)佐賀の乱(江藤新平の乱)が起き、これに従軍して戦死。29歳。その後、妻の操は山川家に戻り、ロシア留学、フランス語を学んで帰国。宮内省権掌侍として照憲皇太后に仕える。

墓は、谷中霊園乙6号2側。光照の碑の篆額は、松本容保。無縁で倒壊の危険があり合祀のため八柱霊園に移し撤去となった。