近藤真鋤(こんどうしんすけ)    天保11年4月1日〜明治25年11月1日(1840-1892)

    朝鮮国京城駐代理公使。姓、藤原。号、内軒。父、近江大津の医家近藤誠介。近江大津出身。17歳で膳所藩の黒田某に師事し蘭学を学び、美濃大垣の江馬春齢に師事し医学を修める。家業の医師を継ぐにおよび京都に移る。姉小路公知・沢宣嘉ら2卿の知遇を受け侍医として常に機密に参画した。明治3年(1870)伊東祐保・斉藤実俊らと外務権大録。明治5年(1872-1876)ロンドン勤務。明治10年(1877)外務権少書記官・管理官として朝鮮釜山に赴任。明治13年(1880)初代釜山浦領事。明治15年(1882)京城在勤書記官・判事補・仁川領事。同年7月大院君の扇動による兵変が起こり、公使館が暴徒の襲撃を受けたが、館員と協力し大被害を免れた。明治16年(1883)帰朝し権大書記官。明治17年(1884)参議井上馨特派全権大使に随行して朝鮮に赴任となり、陸軍中将高島鞆之助・海軍少将樺山資紀・1等警視安立利綱・外務権大書記官斉藤修一郎・外務省御用掛吉川重吉らと「金剛」艦に便乗す。帰国後、記録局長となるが明治18年(1885)外務書記官を兼ね再び京城に勤務。明治19年(1886)臨時代理公使・奏任1等中。明治21年(1888)朝鮮国王に謁見。正五位勲三等瑞宝章。53歳。

墓は、谷中霊園 甲6号13側 飛び地。正面「正五位勲三等近藤真鋤墓」。