近藤民之助(こんどうたみのすけ) 文政9年1月28日〜明治29年10月31日(1826-1896)
「三斗小屋の超惨殺事件」の当事者とされる人物。松代藩士。名、章康。通称、民之助。北征の役(戊辰の役の一部)で藩監軍兼参謀。越奥に転戦し、明治元年(1868)10月に松代に戻り、朝廷より78石を賜う。明治5年(1872)8月司法官。松代藩は新政府側であり、墓碑裏の記述もこのようになっているが、資料によっては、会津藩士(幕府側)であり、北征の役で官軍に追われ、那須の三斗小屋まで逃げたが、官軍に命令され板室まで道案内した名主の源右衛門を惨殺したというもの。しかし、事実は藪の中。資料の一部だが、「源右エ門の皮を剥ぎ、股の肉を削り取り串に挿し、炙りて食し、又一片を源右エ門の口に押し込み、己が肉食らいといいたりきと。源右エ門の痛激悲泣の声山谿に響き渡り、聞くも無惨の有様なり」とある。同姓同名の人物がいたのかも知れない。71歳。
墓は、谷中霊園 甲7号12側。正面「近藤民之助墓」。墓碑裏に略歴あり。