小坂千尋(こさかちひろ)/小阪千尋 嘉永3年12月22日〜明治24年11月7日(1851-1891)・・・生誕日23日説あり
陸軍大学教授・陸軍中佐。名、質。字、彬。通称、小坂勇熊のち千尋。父、周防(すおう)岩国藩士小坂猛右衛門永勝。山口県出身。栗栖天山に兵学を学ぶ。慶応2年(1866)藩「精義隊」に入隊。戊辰戦争では奥羽の役に砲隊を率いて従軍。軍務官として第3大隊小隊司令官。明治2年(1869)横浜兵学校入学。明治3年(1870)陸軍兵学校(大阪)の生徒の一人としてフランスに留学。明治5年(1872)サンシール兵学校に入学。明治7年(1874)卒業、少尉となる。明治8年(1875)フランス参謀士官学校に入学。明治10年(1877)中尉として卒業。日本人として初めて外国の兵学校を卒業。明治11年(1878)帰国。士官学校教官。兼参謀本部出仕。明治13年(1880)参謀大尉。明治14年(1881)士官学校学科部副提理。海岸防御取調委員。同年参謀本部総務課員。明治15年(1882)士官学校御用掛。明治16年(1883)陸軍大学教授。明治17年(1884)大山陸軍卿に随行し欧米諸国を視察。明治18年(1885)参謀本部第1局課員。同局2課長。明治20年(1887)天長節飾隊式諸兵参謀。明治21年(1888)山縣有朋監軍に従い欧米歴訪。明治22年(1889)中佐。総務局第3課長。明治23年(1890)軍務局第1軍事課長、本省参事官。コレラにより没する。死亡日をもって陸軍歩兵中佐。従六位勲五等瑞宝章。42歳。
※ フランスの士官学校を卒業して帰国するも、既に日本に陸軍士官学校があり卒業生もおり、出世できずに、あっけなくコレラで没した。
墓は、谷中霊園 乙10号21側。正面「陸軍歩兵中佐正六位勲五等小阪千尋墓」。資料の多くが”坂”であるが、墓碑銘は”阪”である。