幸堂得知(こうどうとくち) 天保14年1月〜大正2年3月22日(1843-1913)
劇作家・演劇評論家・新聞記者。本名、鈴木利平・高橋利平。号、劇神仙・東版坊。俳号、得知。江戸下谷車坂町出身。父、上野輪王寺宮用達青物商高橋弥平、高橋夢叟と称して「上野公園沿革史」の著者で、鈴木家の養子。幼少より芝居を好み、俳諧、一中節、小唄にも才能を現す。一時、不忍池弁天堂の其角堂に住む。明治2年(1869)三井両替商に入社。翌年三井の大番頭鈴木利平の養子となる。明治9年(1876)養父死亡で襲名する。両替商を銀行に改組し、三井銀行員となる。明治12年(1879)銀行員のまま宮崎三昧・三木竹二らと「歌舞伎新報」を発刊、劇評を掲載。明治21年(1888)三井銀行を退職。下谷で呉服商を始めるが失敗。以後、文筆に傾注。小説や歌舞伎台本を書き、幸堂得知名で朝日新聞に連載読み物を書く。明治24年(1891)朝日新聞に入社し小説担当となろ。著書:「大当たり素人芸者」、「浦島次郎蓬莱噺」、「大通世界」、「みちのく長者」、「天製糸瓜の木」など。戯曲:「曽我の対面」、「武骨娘」。
髭塚は、金嶺寺墓地(谷中1-6-27)。無縁墓に合祀され故人の墓はないが、没後に家人が髭を埋めた髭塚があり、「散る花の中に一本桜かな 得知」 とある。髭塚は、山門から入り、ほぼ正面。