孝蔵主禅尼(こうぞうすぜんに) ?〜寛永3年4月14日(?-1626)
豊臣家に仕える尼僧で、豊臣秀吉の正室高台院(北政所:ねね)付きの筆頭女中。父、蒲生氏家臣川副勝重(蒲生氏の臣)。本姓、川添氏。実名は不詳。この頃には「表のことは浅野長政が、奥のことは孝蔵主が」と言われるほどの絶大な権力を持っていて、二人に話をしなければ、何事も秀吉には伝わらなかったと言われている。文禄4年(1595)秀吉は関白豊臣秀次を廃するため、石田三成らを使者として秀次に出頭を命じたが、秀次はこれを拒否。同時に高台院の使者として孝蔵主が訪れ秀次を説得、秀次と共に京都伏見に赴く。秀次は、高野山配流となる。慶長3年(1598)秀吉の死去にともない翌慶長4年(1599)高台院に従い大坂城を退去、京の三本木に隠棲する。その後は大津城の戦いの講和交渉や徳川家康との折衝などを務める。しかし慶長19年(1614)大坂の陣が始まると高台院の元を離れ駿府は移る。のち江戸城の奥を束ね、徳川家康から屋敷を与えられる。その後は2代将軍徳川秀忠に仕え、江戸城大奥の取締を行う。寛永2年(1625)河内国に200石の領地を与えられる。未婚のため子供がなかったため、甥川副重次郎が養子となり200石を嗣ぐ。
※ 加藤清正が地震で伏見城を固した実績を讃え、秀吉の勘気を許させた仲介役。歌舞伎「地震加藤」の主役として演じられている。
墓は、南泉寺墓地(西日暮里3-8-3)。墓地の中央道の中段左側入る。「惟徳玄孝尼蔵主」。写真のご提供は、H.N.もへい様。