雲井龍雄(くもいたつお)    弘化元年〜明治3年12月28日(1844-1870)

    幕末の士・米沢藩士。本名、小島守善。旧姓、中島。幼名、猪吉(いきち)・龍三郎。通称、竜三郎。変名、遠山緑・一木緑・小島正行・桂香逸・湖海侠徒。号、枕月居士。父、藩士中島総右衛門(次男)。少年時代は天才的詩人といわれた。18才のとき、舘山口町の藩士小島才助の養子となり小島竜三郎となる。22歳のころ安井息軒(やすいそつけん)に師事。米沢に帰り慶応3年(1867)1月藩命により数名とともに京都の事情収集にあたった。10月には将軍徳川慶喜が大政奉還し、12月には王政復古の大号令が発せられ、龍雄は貢士(米沢藩を代表して新政治に対する意見を述べる身分)に挙げられた。薩摩藩・長州藩などの幕府方をないがしろにする横暴な政策に反対し、奥羽越列藩同盟の結束をはかり、官軍への抵抗を企て奔走したが失敗。明治2年(1869)上京し集議員の寄宿生となるが退去させられ、芝の上行寺や円真院に「帰順部曲点検所」と表札を出し、旧幕臣や脱藩浪士救済のために浪人を集めていたが、明治3年(1870)新政府転覆の疑いがかけられ、小塚原で処刑される。維新後の政府への謀叛一号として名を残した。謀叛とされたのは、政府の無理解にあったとも言われる。詩人としても名を残し、自由民権派によく詩が詠じられた。27歳。著書:「麻積斐」、「棄児行」、「雲井龍雄全集」。

墓表(碑)は、谷中霊園甲2号4側。さくら通りに面する。川上音二郎碑の隣り。ただし、米沢市城南五丁目(七軒町通り)常安寺にもある。龍雄の首は刑場隣の回向院(えこういん:東京都荒川区)に葬られたが、明治16年(1883)に、米沢出身の山下千代雄(後の衆議院議員)がその墓から頭骨を掘り出し、谷中の天王寺に改葬した。石塔には「龍雄雲井君の墓表」とある。しかし、昭和5年(1930)に米沢の有志が谷中の遺骨を小島家の菩提寺常安寺に再改葬し墓を建てた。回向院にも墓は残っているが、実際の遺骨のあるのは常安寺だけのようだ。