幕末の士・米沢藩士。本名、小島守善。旧姓、中島。幼名、猪吉(いきち)・龍三郎。通称、竜三郎。変名、遠山緑・一木緑・小島正行・桂香逸・湖海侠徒。号、枕月居士。父、藩士中島総右衛門(次男)。少年時代は天才的詩人といわれた。18才のとき、舘山口町の藩士小島才助の養子となり小島竜三郎となる。22歳のころ安井息軒(やすいそつけん)に師事。米沢に帰り慶応3年(1867)1月藩命により数名とともに京都の事情収集にあたった。10月には将軍徳川慶喜が大政奉還し、12月には王政復古の大号令が発せられ、龍雄は貢士(米沢藩を代表して新政治に対する意見を述べる身分)に挙げられた。薩摩藩・長州藩などの幕府方をないがしろにする横暴な政策に反対し、奥羽越列藩同盟の結束をはかり、官軍への抵抗を企て奔走したが失敗。明治2年(1869)上京し集議員の寄宿生となるが退去させられ、芝の上行寺や円真院に「帰順部曲点検所」と表札を出し、旧幕臣や脱藩浪士救済のために浪人を集めていたが、明治3年(1870)新政府転覆の疑いがかけられ、小塚原で処刑される。維新後の政府への謀叛一号として名を残した。謀叛とされたのは、政府の無理解にあったとも言われる。詩人としても名を残し、自由民権派によく詩が詠じられた。27歳。著書:「麻積斐」、「棄児行」、「雲井龍雄全集」。