来島恒喜(くるしまつねき) 安政5年〜明治22年10月18日(1858-1889)
大隈重信暗殺未遂事件犯人。父、筑前福岡藩士来島又左衛門(二男)。母、樋口仙子。福岡城下薬院薬研町出身。家を出て的野茂太夫の嗣となり、海妻甘蔵・高場乱らの教育を受ける。ついで、「堅志社」・「十一学舎」・「向浜塾」および滅私報国精神の「高場塾」に学ぶ。明治12年(1879)「向陽社(のち玄洋社)」に入社し、国権伸長の運動に参加。明治22年(1889)外相大隈重信は、大審院判事に外国人採用することで条約改正を図ろうとした。この国辱的条約改正案を廃案とすべく、来島恒喜は明治22年(1889)10月18日霞が関外務省の門前で大隈重信に爆弾を投げ右足を失う負傷をさせた。大隈重信暗殺未遂事件である。来島恒喜は悠然と門を出て、海軍省の土手近くで同志に成功を報告してからその場で自殺した。31歳。動揺した内閣は24日大隈を除いて総辞職し、大隈の条約改正交渉は失敗し廃案となった。大隈重信は命は助かったが片足を失い、以後「隻脚侯」と呼ばれる。早稲田大学構内の銅像が杖をついていることでも知られる。なぜか、この墓を詣でると受験に受かるという噂があるらしい。
墓は、乙10号17側。木の下。生没記録なし。墓石裏に経歴記録あり。正面「来島恒喜之墓」。福岡市博多区千代 崇福寺の情報もある。