楠本正隆(くすもとまさたか)    天保9年3月20日〜明治35年2月7日(1838-1902)

    地方行政に名をあげた政治家。幼名、平之允。通称、小一郎。号、西洲。父、肥前大村藩士楠本正式(長男)。大村藩(長崎県大村市)出身。幕末では倒幕運動にも加わった大村三十七士の一人。大久保利通の腹心として知られた。藩校監察・中老を歴任。明治元年(1868)戊辰時の徴士。長崎裁判所権判事および九州鎮撫使参謀助役。明治3年(1870)外務権大丞。明治5年(1872)新潟県令となり、先の県令が疏水建設に関わり、民衆に過酷な賦課を課し大河津事件が起きたが、民費を償還するなどで解決に導く。また、柏崎県と新潟県の合併、官尊民卑の悪弊の是正、県政の衆議化、第四国立銀行の設立、新潟市の白山公園を造園など新潟県の近代化に尽力した。白山公園には彼の像が置かれている。柴原和・安場保和と共に「天下の三県令」の随一といわれた。 その後、明治10年(1877)東京府知事(1875-1879)。明治12年(1879)元老院議官、副議長。明治17年(1884)陪席裁判官。明治22年(1889)東京市会議員。明治23年(1890)第一回衆議院総選挙で当選、明治24年(1891)東京市会議長、明治26年(1893)衆議院議長などを歴任した。明治24年(1891)・明治27年(1894)東京市議会議長。明治29年(1896)男爵となる。立憲革新党・進歩党・憲政本党で住職をなす。錦鶏間祗候。従二位勲一等。67歳。

※ 旧楠本正隆屋敷(長崎県大村市玖島)は、明治3年(1870)に建てられた武家屋敷で観光名所となっている。

※ 東京市会議員と衆議院議員を兼務できた。

楠本正敏(くすもとまさとし)     慶応2年10月1日〜昭和13年2月19日(1866-1938)

都新聞社長・男爵。幼名、清七郎。父、楠本正隆(長男)。明治35年(1902)父の死を受け都新聞(東京新聞)社長となる。明治43年(1910)から大正14年(1925)まで貴族院議員。日本競馬協会の創立に尽力し、評議員をつとめる。73歳。

墓は、谷中霊園乙7号甲1側。霊園事務所前方の舗装通路角の広い囲みの中にある。扉の隙間から見ることができる。正面「楠本正隆之墓」。ただし楠本正敏・同夫人・息子大助は、正面「楠本家之墓」に合祀されている。なお、父の正武(明治16年8月30日没)墓と母富智子(明治37年4月9日没)墓も同域にある。また、楠本荒次郎墓がある。