前田元温(まえだげんおん/もとはる) 天保4年3月15日〜明治34年9月6日(1821-1901)
奥医師・明治期の医師。名、元温。字、子恭。通称、杏・信輔。号、杏斎・松園。薩摩藩士。若年で藩命で上京し皇居(禁裏)付医師に師事し医術を学ぶ。皇居の荒れ果てた姿を見て勤王の志を抱く。27代薩摩藩主島津斎興の参勤に従い江戸へでて将軍家侍医多紀楽真院(1795-1857)、蘭方医坪井信道(1795-1848)らに師事し蘭学を学ぶ。嘉永2年(1849)長崎で蘭医モンニッケ(門尼計)について種痘を学び、帰郷後、薩摩藩にて種痘を実施。元治元年(1864)上京し、禁門の変(1864)において傷病兵の治療を行う。筑前大宰府で三条実美の侍医。鳥羽伏見の戦い(1868)では、英国公使館医師ウイルスを招き治療に当たらせる。横浜陸軍病院を東京に移し、大病院と称し、その院務を司りウイルスを教師に任命した。医学館・医学所・御薬園病院頭取。文部省御用掛、文部省医務局取締。明治5年(1720)警視庁医学校を創設し校長となる。明治10年(1725)権少警視。明治16年(1731)司法省代言人試験委員。正七位。81歳。
墓は、谷中霊園乙5号2側。正面「正七位前田元温之墓」。墓碑周りに来歴あり。