馬島譲(まじまゆずる) 天保5年〜明治35年2月3日(1834-1902)
北海道開拓使医師。京都丹波出身。若くして長崎に行き洋式医学を修め、のち松本順に従って江戸に行き、さらに医学を研鑚した。幕末の騒乱時には、幕府撤兵隊に参加し各地を転戦した。明治元年(1868)始て大病院医師試補となり、明治2年(1869)開拓使1等医師、官立凾館病院初代院長(-1877.11)。まもなく大学および文部省大助教に転じる。明治5年(1872)開拓使7等出仕となり、札幌に赴任、のち累進して開拓使御用掛。明治14年(1881)官立札幌病院長。明治15年(1882)廃藩置県に際し、札幌県御用掛、同県衛生課長、陸軍御用掛。明治20年(1887)退官し、明治21年(1888)小樽に私立愛生病院を設立。未開の地の医療施設は、大勢の救いとなった。明治31年(1898)秀の夫、木村氏に病院を譲り札幌に帰り、晩年には東京にも家を構え東京で没した。69歳。教育にも理解を示し、長崎蘭法医師のミス・スミスがスミス女学校を開校したとき長女秀を入学させ、寄宿舎に託したばかりでなく、3女千代を幼稚園に、2女鶴を明治28年(1895)から北星女学校に入学させている。また、ミス・スミスにも大金を融通している。
墓は、谷中霊園 乙5号3側。正面「馬島譲/室以知子 之墓」。「仁徳院殿寛道春庭居士」。